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森の中のちいさなお店 すてきな”ギフト”みつかります


by lavvoronte

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事実の手掛かり

軽井沢駅から徒歩15分
3階建ての建物も軽く呑みこむ背の高い木々に囲まれたここは
鬱蒼とした静かな比較的歴史の浅い別荘地
最近
近所の大型宿泊施設に
通学路の料亭
ほぼ40年近く、何の手も付かず
朽ちるままに朽ちていた建物に
手が入り始めた

人間の記憶は頼りなく
手掛かりとなっていた象徴が消滅すれば
その記憶も薄れ逝く
事実は遠く存在を消していく

ばっさばっさ、樹は切り倒され
陽が当たり風通しが良くなり空気が乾いていく
何もかもがあからさまに晒されていくようだ

明治から昭和にかけて確かにあったあの文学的なロマンチックな湿った空気感
古い別荘地の面影にはいつも峠から立ち上る霧がつきものだった
黴の臭いを纏う古くなった事実、それを証明し象徴となっていた古い建物
この消失が
それらをおとぎの世へと追いやり記憶の片隅にも留めない
世の中は常に流動している
留められるものは何もない
それは悪くないのかもわからない
ただ、確かなことは
デジタル化した社会では産みだせない豊かな感性
これもおとぎの世のものとなる
という事実


by lavvoronte | 2019-10-10 16:04 | ぶつぶつ・・・

あっぱれ

大正7年に生を受けたうちのおじいちゃん。
ここ3年は老人ホームのお世話になっていたが
まだまだ筋肉もしっかりしていて食欲もあり
自分で歩く事もでき、あと5,6年は生きるだろう
と思っていたのに、ぽっくり死んでしまった。
肺炎だった。

最愛の祖母を亡くし30余年、「早く呼んでくれ」といってめそめそしつつ
バリバリとこなした毎朝晩の犬の散歩、のついでのゴミ拾い、
畑仕事、ハワイでの越冬、友達づきあいに、
念願のひ孫との自転車に乗っての追いかけっこ、
など実に朗らかに満喫していた

思うより動く方が先で
頼むと「ほいきた!」といってすぐに動いてくれた

小学生の頃、学校の飼育小屋の仔ウサギがどうしても飼いたくて
お願いしたら、すぐに近所の百貨店へ行って金網を買ってウサギ小屋を作ってくれた

トンボを取りたいといえばすぐに百貨店で虫取り網と籠を買ってきてくれて
早速庭で一緒に捕まえてくれた

毎年夏には長野へ行って親戚の果樹園でいろんな果物を採る体験をさせてくれ
臭い豚小屋へも連れて行かれた

体育で使うスピードスケートの刃は毎晩のように面倒くさがらず
上手になれよって丁寧に研いでくれた

自転車で通っていた中学校へ寝坊すると母の目を盗んで車でしゃっと送ってくれた



昭和23年に県から軽井沢出張所に派遣され以来軽井沢に住むことになる
当時は進駐軍が接収する別荘の案内役をさせられていたという
お酒にはからっきし弱く、そんな下戸の祖父を米兵たちはからかって
コーラだと騙され飲んだものがお酒だったんだ、くるくる回って大変だったんだ、とか
身長160cmに満たない祖父から見たら米兵は鬼のようにでかかったんだろうな

住まいを囲む浅間石の立派な石垣は
朝薄暗いうちから夜暗くて見えなくなるまでコツコツと
自力で積み上げ作り上げてしまった。
庭にあった四坪程の池も自分で掘った。
なんでもかんでも自分でさくさく作ってしまった
祖母に毎日「いい加減に引き上げなさい」
と叱られたと聞かされたことは耳に沁みついている

「俺が16の頃にはなぁ、東京の青山で奉公していたんだぞ」
高校の頃に甘ったれていた兄と私は何度この話を聞かされたことか

兄二人、妹四人、弟一人の八人兄弟の三番目
出生届に「武幸」と書く所を父親が間違えて「茂幸」としていたことを
学校へ上がる際の申請の時まで家人全員誰も知らなかった。ウケる。
しばらくぶりに葬儀で会った祖父の長兄のご長男が
「叔父さんはこっちでは武おじさんってよばれてたんだよ」と
ずーっと静かに微笑んで話してくれた叔父さんに話好きな祖父の面影があった

祖父には顔と身体に少しの赤いあざがあった
「お腹の中にいる時にお母さんがびっくりしたことがあると赤ちゃんにあざが出来るんだってさ」
全然気にも留めていない風だった

祖父がまだ60代の頃
「ひ孫が生まれるまで長生きしたいなあ」
「年を取って目が見えなくなって「誰だやア?」なんてボケて嫌がられるんかなあ」
どっちだよ??
て思うことをいつも言っていて嫌がられる以外はその通りになった



戦争には三度出兵したらしい
私が覚えているのは、満州とトラック島の話
「トラック島のバナナは木で熟すから皮が紙のように薄くてうんまかったんだ」
「満州は凍て付く寒さで、夜宿舎の外でおしっこをするとそのまま棒のように凍るんだ」
ホントかよ??
「戦友が真横で砲撃を受けて死んでしまってから、こんちくしょう!って玉が恐くなくなった」
「トラック島を脱出する際砲撃を受けて船が沈没して助けが来るまで三日三晩ずーっと海に浮いていたんだ」

終戦の年の12月、真冬に半袖半ズボンでトラック島から引き上げ
やっと自宅へ辿り着くと「こんばんは。」声色を変えて声をかけた
奥から、どなたさんですい?と言って顔を出した両親に
「武か!! お前足あるか!?」
といって迎えられたらしい。
すぐ上のお兄さんはロシアの捕虜にされ祖父より帰国が遅かった
抑留中、強度に共産党に洗脳され頭がおかしくなってしまって
夜中に大声で共産党の唄をうたって外を歩き回るから
軽井沢に引き取って祖父がその面倒をみた
戻るまでしばらく大変だったと聞いた
二人とも20代を戦争に侵された。



そんな祖父はめそめそしたところはあるがくよくよしないタイプで
戦後、軽井沢での活躍は目覚ましい
なんでも臆せず行動する

県の仕事で全県中回って各地の特産等を知りつくしていたお陰で
軽井沢に物産館という土産屋を建てた

一方、一年の半分が冬だった軽井沢で石炭屋を起こす
橇を引いて配達をし、帰りはその橇に乗って帰って来た
石炭屋はガス屋になり現在も続いている

軽井沢にスキー場の無かった時代は旧ゴルフ横の坂道を竹スキーで滑って遊んだとか

そうは見えないのだがお金儲けが上手で
山から小さいもみの木を切り出して
クリスマスツリーとしてトラックに積んで東京の米兵の所に売りに行くと
すんごく儲かったんだ
だそうだ。

杏の種をみて「これ何かにならないかなあ」と穴を開け
ひもを通しお人形に見立てたキーホルダー
これが飛ぶように売れたんだ
アイディアをすぐ形にする人だった

裏の土地にいよいよ別荘が建つと聞いた時
お金があったらあの土地も買いたかったんだ
そして真ん中に大きな池を作ってその周りにコテージを何棟も作って
たくさんお客さんを呼びたかったんだ
構想が豊かな人だった

晩年、
朝お店に出てみると店横の芝生に大きな蔓の巨大なモニュメントが現れていた
この太い蔓、一体どこから収集してくるのか
店の雰囲気に合わない!と毎朝巨大モニュメントと格闘し片してしまう私
せっせと収集してきてしゃしゃしゃと早朝に巨大モニュメントを作る祖父
祖父と私の他愛のない攻防戦
「せっかく作ったのに」といって憤慨していたっけ

長野時代からの親友と祖母と祖父とはよく旅行へ行っていた
旅館に着いた時、親友の方は足が悪いので祖母と先に車を降り
祖父は車を停め荷物を持って後を追うと旅館の方に
「運転手さんのお部屋はこちらです」
と呼びとめられた、と大笑いした話がお土産だった
ハワイに行き始めた頃お土産に買ってきてくれた鉛筆が
MADE IN JAPANだったので大笑いしたのも思い出した



長いお付き合いを下さった方は祖父といえば「ブルーベリー」
40年近く前から何十本も育て、時期には毎日何十kgも収穫し
夜な夜なジャムにして瓶に詰めお手製のラベルを張り
皆に配っていた。

人助けが性分のようで、本当に沢山の人の面倒を見た
皆に「じじ」「じじ」と慕われていた

ああいう大胆さが私にも欲しい所だ
爪の垢を頂いておくんだった。

前夜式の葬祭場にもう一件の葬儀があった
なんと、長野時代からの古いお付き合いの親友の奥様のものだった
家族ぐるみの付き合いで私も親戚の様に思っていたのだが
ここ数年様子が伺えないな、と心配していたのだが
一体どこまで仲よしなんだ
共通の知り合いの想いも皆共通だった
長く離れて暮らしていた一人息子さんは
「一緒に連れて行ってくれてありがとうございました」
とおっしゃっていた
本当に。仲良くお手手つないでそれぞれの最愛のツレアイの待つ天へと旅立った

あっぱれな101年の人生となった
やっと呼んでもらえたね
おつかれさまでした。



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by lavvoronte | 2019-10-04 13:23 | ぶつぶつ・・・