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森の中のちいさなお店 すてきな”ギフト”みつかります


by lavvoronte

カテゴリ:ぶつぶつ・・・( 96 )

事実の手掛かり

軽井沢駅から徒歩15分
3階建ての建物も軽く呑みこむ背の高い木々に囲まれたここは
鬱蒼とした静かな比較的歴史の浅い別荘地
最近
近所の大型宿泊施設に
通学路の料亭
ほぼ40年近く、何の手も付かず
朽ちるままに朽ちていた建物に
手が入り始めた

人間の記憶は頼りなく
手掛かりとなっていた象徴が消滅すれば
その記憶も薄れ逝く
事実は遠く存在を消していく

ばっさばっさ、樹は切り倒され
陽が当たり風通しが良くなり空気が乾いていく
何もかもがあからさまに晒されていくようだ

明治から昭和にかけて確かにあったあの文学的なロマンチックな湿った空気感
古い別荘地の面影にはいつも峠から立ち上る霧がつきものだった
黴の臭いを纏う古くなった事実、それを証明し象徴となっていた古い建物
この消失が
それらをおとぎの世へと追いやり記憶の片隅にも留めない
世の中は常に流動している
留められるものは何もない
それは悪くないのかもわからない
ただ、確かなことは
デジタル化した社会では産みだせない豊かな感性
これもおとぎの世のものとなる
という事実


by lavvoronte | 2019-10-10 16:04 | ぶつぶつ・・・

あっぱれ

大正7年に生を受けたうちのおじいちゃん。
ここ3年は老人ホームのお世話になっていたが
まだまだ筋肉もしっかりしていて食欲もあり
自分で歩く事もでき、あと5,6年は生きるだろう
と思っていたのに、ぽっくり死んでしまった。
肺炎だった。

最愛の祖母を亡くし30余年、「早く呼んでくれ」といってめそめそしつつ
バリバリとこなした毎朝晩の犬の散歩、のついでのゴミ拾い、
畑仕事、ハワイでの越冬、友達づきあいに、
念願のひ孫との自転車に乗っての追いかけっこ、
など実に朗らかに満喫していた

思うより動く方が先で
頼むと「ほいきた!」といってすぐに動いてくれた

小学生の頃、学校の飼育小屋の仔ウサギがどうしても飼いたくて
お願いしたら、すぐに近所の百貨店へ行って金網を買ってウサギ小屋を作ってくれた

トンボを取りたいといえばすぐに百貨店で虫取り網と籠を買ってきてくれて
早速庭で一緒に捕まえてくれた

毎年夏には長野へ行って親戚の果樹園でいろんな果物を採る体験をさせてくれ
臭い豚小屋へも連れて行かれた

体育で使うスピードスケートの刃は毎晩のように面倒くさがらず
上手になれよって丁寧に研いでくれた

自転車で通っていた中学校へ寝坊すると母の目を盗んで車でしゃっと送ってくれた



昭和23年に県から軽井沢出張所に派遣され以来軽井沢に住むことになる
当時は進駐軍が接収する別荘の案内役をさせられていたという
お酒にはからっきし弱く、そんな下戸の祖父を米兵たちはからかって
コーラだと騙され飲んだものがお酒だったんだ、くるくる回って大変だったんだ、とか
身長160cmに満たない祖父から見たら米兵は鬼のようにでかかったんだろうな

住まいを囲む浅間石の立派な石垣は
朝薄暗いうちから夜暗くて見えなくなるまでコツコツと
自力で積み上げ作り上げてしまった。
庭にあった四坪程の池も自分で掘った。
なんでもかんでも自分でさくさく作ってしまった
祖母に毎日「いい加減に引き上げなさい」
と叱られたと聞かされたことは耳に沁みついている

「俺が16の頃にはなぁ、東京の青山で奉公していたんだぞ」
高校の頃に甘ったれていた兄と私は何度この話を聞かされたことか

兄二人、妹四人、弟一人の八人兄弟の三番目
出生届に「武幸」と書く所を父親が間違えて「茂幸」としていたことを
学校へ上がる際の申請の時まで家人全員誰も知らなかった。ウケる。
しばらくぶりに葬儀で会った祖父の長兄のご長男が
「叔父さんはこっちでは武おじさんってよばれてたんだよ」と
ずーっと静かに微笑んで話してくれた叔父さんに話好きな祖父の面影があった

祖父には顔と身体に少しの赤いあざがあった
「お腹の中にいる時にお母さんがびっくりしたことがあると赤ちゃんにあざが出来るんだってさ」
全然気にも留めていない風だった

祖父がまだ60代の頃
「ひ孫が生まれるまで長生きしたいなあ」
「年を取って目が見えなくなって「誰だやア?」なんてボケて嫌がられるんかなあ」
どっちだよ??
て思うことをいつも言っていて嫌がられる以外はその通りになった



戦争には三度出兵したらしい
私が覚えているのは、満州とトラック島の話
「トラック島のバナナは木で熟すから皮が紙のように薄くてうんまかったんだ」
「満州は凍て付く寒さで、夜宿舎の外でおしっこをするとそのまま棒のように凍るんだ」
ホントかよ??
「戦友が真横で砲撃を受けて死んでしまってから、こんちくしょう!って玉が恐くなくなった」
「トラック島を脱出する際砲撃を受けて船が沈没して助けが来るまで三日三晩ずーっと海に浮いていたんだ」

終戦の年の12月、真冬に半袖半ズボンでトラック島から引き上げ
やっと自宅へ辿り着くと「こんばんは。」声色を変えて声をかけた
奥から、どなたさんですい?と言って顔を出した両親に
「武か!! お前足あるか!?」
といって迎えられたらしい。
すぐ上のお兄さんはロシアの捕虜にされ祖父より帰国が遅かった
抑留中、強度に共産党に洗脳され頭がおかしくなってしまって
夜中に大声で共産党の唄をうたって外を歩き回るから
軽井沢に引き取って祖父がその面倒をみた
戻るまでしばらく大変だったと聞いた
二人とも20代を戦争に侵された。



そんな祖父はめそめそしたところはあるがくよくよしないタイプで
戦後、軽井沢での活躍は目覚ましい
なんでも臆せず行動する

県の仕事で全県中回って各地の特産等を知りつくしていたお陰で
軽井沢に物産館という土産屋を建てた

一方、一年の半分が冬だった軽井沢で石炭屋を起こす
橇を引いて配達をし、帰りはその橇に乗って帰って来た
石炭屋はガス屋になり現在も続いている

軽井沢にスキー場の無かった時代は旧ゴルフ横の坂道を竹スキーで滑って遊んだとか

そうは見えないのだがお金儲けが上手で
山から小さいもみの木を切り出して
クリスマスツリーとしてトラックに積んで東京の米兵の所に売りに行くと
すんごく儲かったんだ
だそうだ。

杏の種をみて「これ何かにならないかなあ」と穴を開け
ひもを通しお人形に見立てたキーホルダー
これが飛ぶように売れたんだ
アイディアをすぐ形にする人だった

裏の土地にいよいよ別荘が建つと聞いた時
お金があったらあの土地も買いたかったんだ
そして真ん中に大きな池を作ってその周りにコテージを何棟も作って
たくさんお客さんを呼びたかったんだ
構想が豊かな人だった

晩年、
朝お店に出てみると店横の芝生に大きな蔓の巨大なモニュメントが現れていた
この太い蔓、一体どこから収集してくるのか
店の雰囲気に合わない!と毎朝巨大モニュメントと格闘し片してしまう私
せっせと収集してきてしゃしゃしゃと早朝に巨大モニュメントを作る祖父
祖父と私の他愛のない攻防戦
「せっかく作ったのに」といって憤慨していたっけ

長野時代からの親友と祖母と祖父とはよく旅行へ行っていた
旅館に着いた時、親友の方は足が悪いので祖母と先に車を降り
祖父は車を停め荷物を持って後を追うと旅館の方に
「運転手さんのお部屋はこちらです」
と呼びとめられた、と大笑いした話がお土産だった
ハワイに行き始めた頃お土産に買ってきてくれた鉛筆が
MADE IN JAPANだったので大笑いしたのも思い出した



長いお付き合いを下さった方は祖父といえば「ブルーベリー」
40年近く前から何十本も育て、時期には毎日何十kgも収穫し
夜な夜なジャムにして瓶に詰めお手製のラベルを張り
皆に配っていた。

人助けが性分のようで、本当に沢山の人の面倒を見た
皆に「じじ」「じじ」と慕われていた

ああいう大胆さが私にも欲しい所だ
爪の垢を頂いておくんだった。

前夜式の葬祭場にもう一件の葬儀があった
なんと、長野時代からの古いお付き合いの親友の奥様のものだった
家族ぐるみの付き合いで私も親戚の様に思っていたのだが
ここ数年様子が伺えないな、と心配していたのだが
一体どこまで仲よしなんだ
共通の知り合いの想いも皆共通だった
長く離れて暮らしていた一人息子さんは
「一緒に連れて行ってくれてありがとうございました」
とおっしゃっていた
本当に。仲良くお手手つないでそれぞれの最愛のツレアイの待つ天へと旅立った

あっぱれな101年の人生となった
やっと呼んでもらえたね
おつかれさまでした。



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by lavvoronte | 2019-10-04 13:23 | ぶつぶつ・・・

家捜し

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店に厨房を設けて早10年
水道が無い頃は雑巾を絞るにもいちいち外の水道まで行っていた。
今は立派になったこと。

毎年お店をopenさせる時
今年はどんな配置にしようかな
と頭をひねる。
数年前より、カウンター席を設けた
しかし肝心のカウンターが座るには高すぎて失礼な席だな、
とずっと懸念材料だった。

今年、重い腰を持ち上げてカウンターを自作した。

祖父が戦地から引き揚げ軽井沢へ赴任して以来
70年余り同じ場所にずっと住み続けているが
こんな材料無いかな、と家捜しすると
なんとか代用できるものが掘り出される
このカウンターに使った板もその一つ
その代わり丁寧にペーパー掛けをしてなんとか使えるまでには手をかけた
しかし、それなりの出来上がりには大満足だ。

しかもちゃんと荷物をかけるフックも付けたのだ
上出来上出来。
















by lavvoronte | 2019-06-21 16:04 | ぶつぶつ・・・

樹木希林の遺したもの

人は生まれたら死ぬ。

全生命に平等に与えられた運命。

人の生き方は「どのように死を迎えるか」に向かっていると思う。


彼女の死は多くの日本人に多くの事を考える時間を生み出した。

9月30日、

記録的な暴風をもたらす恐れのある台風24号の足音を聞く中行われた

樹木希林さんの葬儀で娘の内田也哉子さんの挨拶。

也哉子さんの用いる言葉の的確さ。

内田裕也さんの抱えた「自分自身の矛盾に大きくぶつかる」と吐露した

最も人間らしい生々しい葛藤。自分とは何だろう。。。

これを覚えておきたいと思いブログに上げた。


本日は足元の悪い中、大変お忙しい中、母・内田啓子の本葬儀にご参列いただきまして、誠にありがとうございます。

 私にとって母を語るのに、父・内田裕也をなくして語れません。本来なら、このような場で語ることではないのかもしれないですが、思えば、内田家は数少ない互いへのメッセージ発信をいつも大勢の方々の承認のもとに行っていた“奇妙な家族”でした。 また生前母は、恥ずかしいことこそ、人前でさらけ出すというやっかいな性分だったので、皆様が困らない程度に少しお話させてください。

 私が結婚するまでの19年間、うちは母と私の2人きりの家庭でした。そこにまるで、象徴としてのみ君臨する父でしたが、何をするにも私達にとって大きな存在だったことは確かです。

 幼かった私は不在の父の重すぎる存在に、押しつぶされそうになることもありました。ところが困った私が、なぜこのような関係を続けるのかと母を問い詰めると、平然と、だってお父さんにはひとかけら、純なものがあるからと私を黙らせるのです。自分の親とはいえ、人それぞれの選択があると、頭ではわかりつつも、やはり私の中では、永遠にわかりようもないミステリーでした。

 ほんの数日前、母の書庫で探しものをしていると、小さなアルバムを見つけました。母の友人や、私が子供の頃に外国から送った手紙が丁寧にはられたページをめくると、ロンドンのホテルの色あせた便せんに目が止まりました。それは母がまだ悠木千帆と名乗っていた頃に、父から届いたエアメールです。


 『今度は千帆と一緒に来たいです。結婚1周年は帰ってから二人きりで。蔵王とロサンゼルスというのも、世界中にあまりない記念日です。この1年、いろいろ迷惑をかけて反省しています。

 裕也に経済力があれば、もっとトラブルも少なくなるでしょう。

 俺の夢とギャンブルで高価な代償を払わせていることはよく自覚しています。突き詰めて考えると、自分自身の矛盾に大きくぶつかるのです。

 ロックをビジネスとして考えなければならないときが来たのでしょうか。最近、ことわざが自分に当てはまるような気がしてならないのです。早くジレンマの回答が得られるように祈ってください。落ち着きと、ずるさの共存にならないようにも。

 メシ、この野郎、てめぇ、でも、本当に心から愛しています。

 1974年10月19日 ロンドンにて 裕也』


 今まで想像すらしなかった、勝手だけれど、父から母への感謝と親密な思いが詰まった手紙に、私はしばし絶句してしまいました。普段は手に負えない父の、混沌と、苦悩と、純粋さが妙に腑に落ち、母が誰にも見せることなく、大切に自分の本棚にしまってあったことに納得してしまいました。そして、長年、心の何処かで許しがたかった父と母のあり方へのわだかまりがすーっと溶けていくのを感じたのです。こんな単純なことで、長年かけて形成されたわだかまりが溶け出すはずがないと自分に呆れつつも、母が時折、自虐的に笑って言いました。

 私が他所から内田家に嫁いで、本木さんにも内田家をついでもらって、みんなで一生懸命家を支えているけど、肝心の内田さんがいないのよねと。

 でも、私が唯一親孝行できたとすれば、本木さんと結婚したことかもしれません。時には本気で母の悪いところをダメ出しし、意を決して、暴れる父をなぐってくれ、そして、私以上に両親を面白がり、大切にしてくれました。何でもあけすけな母とは対照的に、少し体裁のすぎる夫、家長不在だった内田家に、静かにずしりと存在してくれる光景は未だにシュール過ぎて、少し感動的ですらあります。

 けれども、絶妙なバランスが欠けてしまった今、新たな内田家の均衡を模索するときが来てしまいました。怖気づいている私はいつか言われた母の言葉を必死で記憶から手繰り寄せます。

 『おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きればいい』

 まだたくさんすべきことがありますが、ひとまず焦らず家族それぞれの日々を大切に歩めたらと願っております。

 生前母は、密葬でお願いと、私に言っておりましたが、結果的に光林寺でこのように親しかった皆さんとお別れができたこと、またそれに際し、たくさんの方々のご協力をいただく中で、皆さまと母との唯一無二が交流が垣間見えたことは残されたものとして、大きな心の支えになります。

 皆さま、お一人お一人からの生前の厚情に深く感謝しつつ、どうぞ、故人同様、お付き合いいただき、ご指導いただけますことをお願い申し上げます。

 本日は誠にありがとうございました。


by lavvoronte | 2018-10-01 16:23 | ぶつぶつ・・・

與謝野晶子氏、曰く

私の感情は日々コロコロ転換する
お客様がたくさんお見え下さると
「ああお店をやっていてよかったな」と思い
一人のお客さまもお見えにならないと
「働き盛りがこんな仕事をしていて良いものだろうか」
とうなだれる

或るときこんな言葉にぶつかった

「私達の学校教育目的は、画一的に他から強要されること無しに、個人々々の創造能力を、本人の長所と希望に従って、個別的に、自ら自由に発揮せしめる所にあります。即ち、貨幣や職業の奴隷とならずに、自己が自己の主人となり、自己に適した活動に由って、少しでも新しい文化生活を人類の間に創造し寄与することの忍苦と享楽とに生きる人間を創りたいと思います。
 言い換えれば、完全な個人を作ることが唯一の目的です。『完全な個人』とは平均した人間という意味でもなければ万能に秀でたと云う伝説的な天才の意味でもありません。人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえ居れば宜しい。それで充分に意義のある人間の生活を建てることができます。また、一能一芸以上に適した素質の人が多方面に創造能力を示すことも勿論結構ですが、両者の間に人格者として優劣の差別があると思うのは俗解であって、各々その可能を尽くした以上、彼も此れも『完全な個人』として互に自ら安住することができるようで無ければならないと思います。」

上記は、かつてお茶の水にあった「文化学院」の学校案内に、創設から自身の死までの間、女学部の学監としてその教育に深くかかわった與謝野晶子氏が1921年に寄せた文章です。そこから約百年。今の日本の教育はどんな人間を創ろうとしているのだろう。
それはさておき。


「ああお店をやっていてよかったな」と一喜し
「働き盛りがこんな仕事をしていて良いものだろうか」と一憂する、これは
與謝野先生のおっしゃる
人類の間に創造し寄与することの忍苦と享楽とに生きる人間
といえるのではないか?

大いに慰められたのであった












by lavvoronte | 2018-09-16 15:21 | ぶつぶつ・・・

ふたたび、バルトへ

5月29日~6月7日
私を魅了して止まないあのバルトへ、
私にとどまらず周りをも巻き込んで
また行ってきます。

したがって上記期間休業とさせていただきます。
ご迷惑をおかけ致しますが、何卒ご理解くださいませ。



by lavvoronte | 2017-05-26 16:05 | ぶつぶつ・・・

抜歯

無事、親不知を抜いてまいりまして
「腫れます」と注意を受けていたので
ふぐのように丸くなるのか、丸顔だから変化ないかもな、
と思っていました。朝、鏡を見るとそれは「瘤取り爺さん」でした。
瘤取り爺さんって、どんな話だっけなとその顔を見る度におもいました。
学校から帰ってきた甥に
「瘤取り爺さんになっちゃったよ」
といったら「そうだね!鬼の前で踊れば取れるよ。」
といってくれました。
そうか、鬼の前で踊るやつだったか。

by lavvoronte | 2017-05-12 16:31 | ぶつぶつ・・・
壊れて点かないはずの
ガス口が鍋のお湯をぼこぼこと沸かせている
祖父が日課の卵茹でをしていた

猫は二十歳を過ぎると尻尾が三又に分かれて化け猫になると
むかしむかし聞いたことがある

卒寿を卒業して白寿を迎えようとしている祖父
点かないはずのガス口を
一人操っていた

祖父もそろそろ魔法が使えるお年頃にさしかかっているのかもしれない
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by lavvoronte | 2015-10-05 12:46 | ぶつぶつ・・・
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たとえば空気には見えない粒子が浮遊していて
夏はそれが膨らんで、体積が「89」だとすると
それは冬へ向けて「1」へと収縮していくとする

だから、夏は外へ出ると押しつけられるように暑く
ちょっと肌寒いくらいの爽やかな秋の朝は
スカスカしてスースーして身体が軽くなったような気すらする

そして真冬は吸われるように冷気に纏わりつかれ
貼り付いた冷気は暖かい部屋へはいっても
なかなか落ちない

「おおぉぉ、来たかぁぁ」
朝、洗濯を干そう外へ出て
シワシワ~っと沁みこんできた冷気を
あぁ、これだこれだ懐かしい
と思いながら、ただの”肌寒い”ではない感覚の
その理由を探ってみた
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by lavvoronte | 2015-09-20 12:31 | ぶつぶつ・・・

きせきの食事

先日、恒例の食品衛生講習会へ出席してきた

そこでは、昨年までの食中毒発生状況やその原因と対策などを教えて頂く
毎年知らなかった情報があり、これまでよく食中毒にならなかったなと
その事が奇跡に思えるほど菌と食品は密接している事を学習して帰ってくる

例えば、氷にもカビが生えるとか、市販の漂白剤には界面活性剤や蛍光漂白剤が
含まれているので食品には使えない、という事は食品に使えるものもあるのだ、
ということだとか。

今年、一番印象に残っているのは、豚肉の生肉での提供の禁止に伴う情報で
豚にいる寄生虫は食すと人の筋肉の中を動き回るものがあり
それはそれは死ぬほど痛くて、治療は外科的な方法しかない、というもの。
翌日、テレビのニュースでこの話題を取り上げていたので尚印象的だ。

動き回る寄生虫をどうやって探し出し、取り出すのだろう。
私もゴマ油の香ばしい香りと適度な塩味で頂くレバ刺しが好きだから
食せなくなるのはさみしいが痛いのはごめんだ

それから鮮度のいいものでもその菌の鮮度もいいから食中毒を起こすことがあるらしい。
新鮮だから安全、とはいかないのだ。生色にはご注意を。

今日のお昼は昨日の残りのカレーだった
ここにも危険が潜んでいる
カレーにはウエルシュ菌が多く発生します。
ウエルシュ菌。ウエルシュコーギー、と覚えた。
温め直しが冷めていくちょうどいいぬるさになった時に
活発に増殖していくそうです。そんな事も今まで知らなかった。
知らずに適当に温めて、それで大丈夫だったのだが、時は梅雨。
今日は念には念を入れて火を通した。
今日も美味しく頂けました。奇跡をごちそうさま。
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梅雨時です。
皆さまも、十分にお気を付け下さい。
(ノロウイルスは冬だけのものでもないようです。ノロウイルスは塩素しか効きません。吐しゃ物は半径2mは飛び散ります。健康者が保菌している事も多くあるそうです)
by lavvoronte | 2015-06-13 16:26 | ぶつぶつ・・・